レッドオーシャンで見つけたブルーホール①
第一話 証券会社へ就職
2009年、当時僕は24歳。大阪、北浜の証券会社で働いていた。
証券会社のディーリング部(証券会社の資金を株の売買で運用する部署)のディーラーとして日々株取引をしていたが、株取引のプロであるにも関わらず、テクニカル分析の指標であるボリンジャーバンドも知らずにノリと雰囲気だけで売買していた。その当時はディーラーが使うシステムの方が個人投資家の使うネット証券のシステムよりも優位性があったので勝ちやすかったということもある。
株の勉強も全くせず、楽しみと言えば会社終わりの飲み会、いわゆるコンパにばかりかまけていた。24歳の僕は上場証券会社の社員という肩書を存分に生かし、社会人生活を満喫していた。
ここで少し話がずれるが、何故僕が工業大学の建築科卒業にも関わらず畑違いの証券会社に就職したかという話をしよう。大学生当時の僕も、楽しく遊んでばかりいた。周りが就職活動を始めるにつれて特にしたいこともなく、建築家になりたいわけでもなかった僕は、上場会社であればどこでもいいかな、それと楽な部署がいいな、という軽い気持ちで就職先を探していた。そもそも建築家に入ったのも、2003年放送の「僕だけのマドンナ」という滝沢秀明出演のドラマで、大学で建築を学ぶタッキーが、図面を入れる肩からかける「図面ケース」を持って大学生活を送っていたのを見て、「なにこれ!?カッコイイ!建築科に入ろう!」そんな不純な動機で建築科を選んだ。翌年の2004年大学一年になった僕はまだ使いもしない図面ケースをすぐ購入し、周りで誰も持っていない図面ケースを一人自慢げに持ち歩いていたのを覚えている。
そんな生活を送っていた僕も大学三年になり、ある時知り合いから、「会社の資金で株取引をして、相場が始まる朝の9時から相場が終わる15時10分までの取引で(当時は大阪証券取引所の取引が15時10分までだった)、以降は17時までゆっくりしてから定時になると退社できる証券会社のディーリング部があるよ。」と教えられた。
「なんだよ!?その天国みたいな会社!!行くしかないっっ!!!」
そこから僕は徹底的に、新卒からディーリング部に配属される証券会社を調べた。昔から決断と行動だけは早かった僕は、東京、名古屋、大阪にある会社を片っ端から面接し、就職できたのがI証券だった。今思えばなんとも浅い考えか。
話を戻し、2008年めでたく証券会社のディーラーとして入社して、社会人生活を謳歌していると、ある日、衝撃的な事実を知る事になった。
「え!?I証券がK証券と合併!?どうなるの!?」思わず口走った。しかも所属している部署が、合併することによって縮小することを知った。
僕は株取引の勉強もせず遊び呆けていたので、株取引の成績も芳しくなく縮小と共に営業に移動することが囁かれていた。
2010年I証券がK証券を完全子会社化。そこで僕はディーリング部からK証券の投資戦略室へ、出向という形で異動となった。営業マンを育成する部署である。この部署へ異動したのはI証券からは14名程で、主に投資信託や債券の勉強、新規開拓をするにあたってどのようにアポを取るのかを叩き込まれ、実際に新規開拓でエリアを回った。元々僕がいたI証券が規模の大きいK証券を買収するという形になったため、K証券に出向した僕らは敵陣営に送り込まれるという雰囲気そのものだった。投資戦略室では、部長がK証券の人で教える立場の人も全員K証券だった。I証券から出向で行ったメンバーはまるでイジメのように扱われた。
証券会社の新規開拓とは、あるエリアを任され、地図を持ち歩きながら一軒一軒ピンポンを押していき、名刺を一日何枚交換できるか、何名の方とどのような話が出来るようになったのか、その話が出来た方のところへ何回も足を運び家に上げてもらえるか、事務所の場合は座って話がさせてもらえるかが重要となる。如何に自分を好きになってもらえるのかを凄く考えた。しつこいと思われてもいい、嫌われてもいい、数字を上げる為には、如何に相手の懐に入れるかが勝負。話を聞いてくれるようになった手ごたえのある年配の女性の方のところには百貨店でたまに開催される物産展でお菓子を買い、「○○さんと一緒に食べようと思って、旅行に行ったときに買ってきました!この前の旅行なんかは…!」と話をし出すと、相手も嬉しくなり家に上げてくれた。信頼を築いてから、相手自ら「株」「投資信託」「貯金」「運用」というキーワードが出るまで待つ。それらが出たら商品説明をする。あくまで売りに来たというイメージをつけさせない。
相手にとってどうすれば自分が気に入ってもらえるのかを考え、夏も冬もひたすら通う。冬は地獄だった。コートを着てチャイムを押すことは、営業マンにとってはご法度だったからだ。一回一回脱ぐのでは手間がかかるので、雪の降る日でもコートを片腕にかけて次々とチャイムを鳴らす。決められたエリアを回る間中、K証券の教育担当が監視していた。ちょっとエリアから外れたり、コートを着たまま営業すると、部署に戻ってから「見てたよ」とこっぴどく怒られた。
数字を上げないといけないプレッシャーと、上司からの尾行を繰り返し、あの時は鬱になるかとさえ思った。
悪戦苦闘の結果、「相手に気に入られる行動」を覚えた僕は相手からの見え方を意識するようになり、数字も上げる事が出来て、投資戦略室では1番の営業成績を叩き出すことに成功した。
その当時顧客の年配女性からの好意により、僕が一人暮らしだからと、よくレトルト食品を持たせてもらっていた。営業成績がトップになるころには、レトルト食品は毎日食べても1年間過ごせるほどに貯まっていた。
その年、2010年12月18日の日本経済新聞の記事では、僕の人生のターニングポイントとなる見出しが発表された。